健康コラム COLUMN

【人間万事塞翁が馬】愛媛 香川 四国中央市 新居浜 西条 自然薬 漢方薬 漢方 生理痛 更年期 ストレス 自律神経 HSP

2023年1月17日

あけましておめでとうございます。今年もどうぞよろしくお願いいたします。

 

さてさて昨年末、家内と 一緒に大掃除をかねて断 捨離をしました。

その時、昔の家内の「お元気さんつうしん」の原稿や、その原稿の元にな った家内の昔の日記が出 てきました。

それには、健が生まれた 当時の鈴木薬局のことや、健の喘息のことを詳しく書いていました。

 

薬剤師の私とは違った母親の目線で我が子を見ていることが、じわ〜っと心にしみてきました。

 

そこで、今回はこの昔話をご紹介したいと思います。

何十ページにも渡って詳しく書かれているので、私なりにまとめて、当時の健の様子を家内の言葉で書いてみますね。

 

( )の中は私の補足です。

では、始まり始まり〜

 

二〇〇六年八月。

「居ると大変なのに、居ないと物足りないものなぁに?」 それは「息子」(笑)

(お盆に帰省していた)健が、大学が始まるのでアパートに帰ったばっかり。

健の肌がとってもキレイになっていてビックリ!

高校の時のアトピーとニキビの混在した、ホントにむさくるしい肌だったのが!それにストレスのひどい時には単純へルペスも併発してヒドイ肌だったのに。

男の子の一人暮らしの栄養の偏り、野菜不足は想定内。ということは、やっぱり入学時から欠かさず送っているバイオリンクとオイスターのおかげ?

だがそれにしてもツルツルすべすべではないか!

あんなにひどかったのに!  やっぱりこれはストレスがないからだろうか?

 

親の小言から解き放たれ、大学生活にも慣れて青春している!

よくよく聞いてみると、筋トレに励んでいるとか。

細いなりにも逆三角形の体に筋肉がつき、バイトでプールの監視員をしているせいで浅黒く焼け、子供の頃のひ弱さが全くなくなっている。

喘息も出ないと言う。

昔、 喘息が酷くて「この子はちゃんと育つんだろうか?」と心配し続けたことを思うと嘘のよう。

 

でも、実は 健のおかげで今の「自然薬本舗 鈴木薬局」がある。

二十年前の鈴木薬局は 「のどが痛いんです」 「はい、消炎剤です」 「熱が高いんです」 「はい、解熱剤」と 目先の症状を抑えるだけの薬をすすめる「普通の薬局」だった。

そんな薬局が今のように「本来人間が誰でも持っている自然治癒力を高めることが何より大切。

その自然治癒力を高めるお手伝いをしたい」 と思うようになったのは、 喘息で苦しむ健を育て始めた頃だった。

夫がいろんな勉強会に参加し始めたのも、同じ気持ちだったからだと思う。

 

当時の鈴木薬局は、店頭には 大きな洗濯洗剤の箱(昔の洗剤って両手で抱えるほどの大きさだった)やティッシュの箱を山積みして売っていた。

 

健が生まれたのはそんな頃だった。

 

昭和六十年の夏、とても軽いお産で元気よく生まれてきた 二人目の男の子。

育休をとっていた私は二度目の育児を楽しむはずだった。

私たちの生活の場である薬局の二階はまるで倉庫。

大量仕入れしたティッシュの入ったダンボール箱が、シートを敷いた座敷いっぱい天井近くまで山となって積み上がっていた。

廊下も洗剤やら雑貨やらの商品の山で、廊下を通る時はカニのように横歩きしないと通れない。

二階全体が倉庫と化したような所で育児は始まった。

今から思うにハウスダストやダニがいっぱいの住空間だったと思う。

(その頃はそんな概念があまりない時代だった。)

 

そんな環境にも原因があったのかどうかはわからないが健はとても病弱だった。

生後三ヶ月で 早々と水疱瘡 に。

「母体から もらったはず の免疫はどうしたんだろう? しかも母乳百%で育てているのに…」何か不安がよぎる。

(当時は母乳の質とかは頭になかった)

このことを皮切りに毎月のように熱を出して、一歳半までの間になんども「風邪」を引き「気管支炎」そして「喘息性気管支炎」の診断をもらう。

 

「育児」イコール「病院に連れて行く事」みたいな生活だった。

生まれつき呼吸器系が弱かったんだろうか?

 

一度も病気とは縁のなかった長男と比べると本当にひ弱い子供だった。

深夜、突然の呼吸困難で眠ることもできずゼーゼー喘ぎながら泣く児。

彼を抱きかかえて背中をさすってやりながら病院が開く朝を待つ長い長い夜。 私も不安だったけど、本人はどんなにかしんどくて心細かった事だろう。

やっと朝になり朝一に連れて行っても帰りはいつも午後。

ぐったりした子を抱っこしての通院は心身とも大変だった。

行くとすぐに吸入をしてくれてちょっと楽になるので安心して帰ってくると、しばらくしたら またゼーゼー。

でも始めの頃はゼーゼー言いながらも室内で普通に遊んでいた。

食欲は全然なかったが。

そして三日くらいでなんとか元気に回復していた。

それがこんなことでは終わらなくなっていく・・・

 

次号へ続く・・・

ヒロシでした。

【人生は生きづらく温かい 人生は生きづらくて愛おしい 今治大浜一丁目 お好み焼き店の十七年の記録】愛媛 香川 四国中央市 新居浜 西条 自然薬 漢方薬 漢方 生理痛 更年期 ストレス 自律神経 HSP

2022年12月15日

早いものですね。コロナに始まりコロナに慣れてきた一年が終わろうとし ています。お変わりありませんか?

さてさて、今回は 文化の日に放送された心に残るドキュメ ンタリー番組のこと をお話ししたいと思います。

 

瀬戸内海の来島海峡大橋のたもと、愛媛県今治市大浜一丁目。

全長わずか二百メートル、車一台がぎりぎり通ることが出来る小さな路地にある一軒のお好み焼き店「昌万(しょうまん)」。

ココを舞台に繰り広げられる懐かしくて温かいご近所さんの十七年の物語です。

 

主人公のミーコちゃん(七十五歳)が経営するお好み焼き店には、いつも常連さんたちがやって来る。

笑い、悩み、ぐちを言い合う、その中でミーコちゃんの大きな笑い声が響く。

その豪 快な笑い声に誘われるように、毎日 ご近所さんが集ま ってくる。

みんな昭和の繁栄の時代を作った人たちばかりである。

その中のひとり、独り暮らしのみっちゃんは

 

「ここはうるさいけどええトコよ。私はココで死にたいね。」と。

 

大阪で成功をおさめたオシャレな味岡のおいさんはこの島に帰ってきて余生を独りで満喫している。

この店に毎日来るのが日課。

 

そしてミーコちゃんの同級生の猫好きのフミちゃんも、ほとんど毎日、猫たちとやって来る。

 

十七年の間にはいろんなドラマが起こる。

 

ある時、味岡のおいさん(当時九十四歳)が二、三日顔を見せない。

心配して家まで様子を見に行くミーコちゃん。

独り暮らしのおいさんは 風邪をこじらせて寝込んでいた。

ミーコちゃんが病院まで連れていき入院させる。

退院の時も迎えに行き家まで連れて帰って来る。リハビリのウォーキングまで付きそう。

 

本当に 「遠くの親 戚より近くの他人」である。

ここには昭和の人情が色濃残っていた。

 

しかしこの入院をきっかけに味岡のおいさんは大阪の娘さん(金持ちらしい)の所に引き取られて行く。

その後、おいさんは百一歳で他界。 みっちゃんは八十三歳で他界。

 

去年の11月、大変なことが起こる。

 

猫好きなフミちゃんのお兄さん(独り暮らし)の家が火事で全焼。お兄さんも亡くなってしまう。

悲しみにくれるフミちゃん。あんなに毎日来ていたミーコちゃんの店に来る気力もなく、家に引きこもる毎日。

フミちゃんのことがとても気にかかるミーコちゃんは、家まで様子を見に行く。

 

 

涙にくれるフミちゃんに「フミちゃん…しんどいね。 つらいね…しんどいけど 前向いて行こうね…」

数日がたち、少し元気になったフミちゃんの姿がミーコちゃんの店にあった。

フミちゃん 「…もう七十五歳まで生きたけんね…」

ミーコちゃん 「何を言いよんよフミちゃん。 私は百歳まで生きるよ!」

フミちゃんは苦笑いしながら 「ミーコちゃんの声を聞いたら死にかけとっても生き返らい」

七十五歳になったミーコちゃんとフミちゃんが並んで歩く後ろ姿をカメラが追う。

 

ナレーター(倍賞千恵子さん)の声が流れる。

「抱えきれない荷物は 一緒に持てばいい。 独りじゃないんだよ」

 

いやー…昭和の、お節介だけど人情味あふれるドキュメンタリーでした。

 

同じ時代を生きて来た私にはこの人たちの人と人との微妙な距離感が理解できる。

 

人は独りじゃ生きていけない、人の情は心のともしびになるんですね。

番組最後に流れた倍賞千恵子さんの「独りじゃないんだよ・・・」の声が心に響きます。

さみしくなったら人の情にすがればいい、抱えきれない荷物なら一緒に持てばいい、 ミーコちゃんみたいに一緒に持てる人になれたらいいなぁ。

 

ヒロシでした

【最悪の立地は私を成長させる という最高の立地だった】愛媛 香川 四国中央市 新居浜 西条 自然薬 漢方薬 漢方 生理痛 更年期 ストレス 自律神経 HSP

2022年11月15日

鈴木薬局 も十一月十一日で 四十五周年を迎えました。 昭和五十三年十一月 十一日、私は二十四歳の若者でした。

開店当時、友人やお客さんに「若いのに自分の薬局を開店するんだから鈴木くんはスゴイな〜」と言われました。

でも全くスゴくなんかありません!

 

これを言われる度に何回言い訳したことか・・

だって土地を買って店を建てたのもお金を出したのも全て私の父なんですから。

 

当時、私は尼崎のドラッグストアーの支店で店長をしていました。

昭和五十三年四月、愛媛の父から突然店に電話がかかってきました。

「いい場所が見つかったので薬局を建てるからすぐに帰ってこい」との内容。

その頃、私は大事な支店を任されてまだ間もない頃で社長にも大変期待されていました。

 

まるで寝耳に水!と言う感じでした。

事情を詳しく社長に説明し、理解してもらって退社。

七月に実家に帰って現地に行ってみると、なんともう既に薬局の形がほぼできていました。

そこから七、八、九、十月の四ヶ月間、私は親戚の大工さんたちと一緒に建設に参加。(毎日が楽しかった!)

そして 十一月 十一日 オープン。ここからが鈴木薬局の 始まりで す。

 

ところが・・・ オープンしてから、あまりの立地の悪さに全く売れませんでした。

 

一日の売上げが数千円とか・・・。

 

尼崎で学んできたことは全く役に立ちません。

 

田舎には田舎のやり方があるんでしょうがそんなことは知る由もありませんでした。

売れるのは薬ではなくて洗剤やティッシュなどの雑貨ばかり。

まだ信用がありませんものね。

まるで雑貨屋さんのようでした。

 

今思うに、 小売業(薬局)の知識なんか ほとんどない製造加工業(鉄工所)の親父(私の父)が、 なんとなくの「自分のカン」みたいなもので立地を決めて! まあこんなもんだろうと薬局の図面を描いて建てた! んですから何ともスゴイ行動力と決断力だなぁ・・・と感心してしまいます。 (ある意味シロウトは怖い!)

 

当時の父にしてみたら長男(私)を地元に帰らせるには薬局を建てるのが一番手っ取り早いと思ったんでしょうねきっと!

でもそれができるんだからスゴイです。

私はといえば、 「一日の売り上げ数千円」 という、現実はこんな状況なのに不思議と何の不安も感じませんでした。

逆に何の根 拠もない自信と希望に あふれてい ました。 今から思い 返しても若さって素晴らしいなあと思います。

 

鈴木薬局がオープンした昭和五十三年に二十七件あった四国中央市の薬局は、現在六件になりました。

新しくできるのは調剤薬局と大手ドラッグストアーばかりです。

「小売業のズブのシロウトの親父が選んだ立地はサイアク!」 だと思っていたけれど、

 

今思うに、この立地だったからこそ今ここで鈴木薬局が生き残っていると思います。

 

当時としては最高の立地とされる場所にあった老舗の薬局は、今ではほとんど残っていません。

その立地が良いか悪いかなんて、時代の流れとともに変化するし、それもやり方次第なのかもしれませんもんね。

最悪の立地は実は私を成長させるという最高の立地だったのかもしれません。

 

ヒロシでした